7月6日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 日本橋編

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    江戸時代の古地図を見ながら東京を散策する「古地図散歩に行こう!」、7月6日の午後は日本橋界隈で江戸時代の水路の跡をめぐってきました。


    江戸時代の江戸は100万人の人口をかかえる世界最大の都市でした。この多くの人口を養うための経済力は、当時の江戸の町に縦横にはりめぐらされていた堀や川などの水路によって支えられていました。これらの水路を使って運ばれてきた多くの物品が、江戸において取引されて莫大な経済効果を生んでいたのです。


    それらの水路も明治・大正・昭和を時代が移り、運輸や取引方法の変化にともなって不要となり、昭和40年代までにほとんどが埋め立てられてしまいました。


    今回はこれらの水路のうち、今はなきものの痕跡をたどることを中心に、その跡地を歩いてきました。


    日本最大の遊郭吉原は、浅草に移転する前は現在の人形町付近にありました。その吉原を囲んでいた堀の一部は江戸時代を通じて残っていました。

     




    江戸時代の地図に「竈川岸」と書いてある横にある水路がそれです。


    現在は一部は道に、また一部は人家の間の細い通路になっています。


    ここから江戸時代に造成された埋立地、永久島と霊岸島をめぐります。現在は箱崎ジャンクションのある場所はかつての箱崎側の跡、その南側は永久島でした。


    箱崎川には行徳河岸という荷揚場があり、行徳から人や物資が運ばれてきていました。今もその跡地周辺には醤油業者が多いです。


    現在の永代橋は日本橋川の右岸に架けられていますが、江戸時代には左岸にありました。その左岸こそが永久島です。江戸時代の永代橋の跡から豊海橋を渡って現在の永代橋の前まで行きます。この場所が江戸時代の埋立地霊岸島だった場所です。


    霊岸島には運河が掘られていました。その運河「新川」の河岸では酒類が荷揚げされ、付近には多くの酒問屋の蔵が並んでいたそうです。第二次大戦の空襲で新川周辺は焼け野原になり、新川も空襲の瓦礫処理のために埋められてしまいましたが、現在も数軒の酒造会社の事務所や倉庫があります。


    湊橋を渡り日本橋川沿いを北上します。日本橋堀留町、日本橋小舟町の付近は江戸時代に2本の堀があり、その両岸では材木、食料、畳表や傘、雪駄などの生活必需品、非常に多くの品々が荷揚げされていました。ここが江戸最大の物流拠点だったのです。


    この2本の堀、「堀江町入堀」と「伊勢町堀」と呼ばれていましたが、これらの堀も現在は埋め立てられてその中央部は道路に、それ以外の場所はビル街になっています。


    そんな中、ビル工事で発掘された堀の護岸の石垣の一部が歩道の脇に展示されています。

     



    伊勢町堀は「L」字形に曲がっていて、その先端は現在コレド室町のある辺りになりました。コレド室町は最近2と3ができて、多くの買い物客で賑わっています。そのコレド室町2と3の間の道は江戸の遊郭を思わせる装飾となっています。
     




    今回の古地図散歩は、この2本の堀の跡を歩いた後、江戸橋から日本橋まで歩いて終わりとなりました。江戸橋から日本橋にかけては魚河岸のあったところで、江戸近辺の漁師たちが獲った魚を運んできて売っていたところです。関東大震災で壊滅し、築地に移転しました。それが現在の築地市場です。


    江戸の人口を支えた水路の跡をめぐった古地図散歩、秋以降も開催する予定です。
    「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、予定を公開しますので、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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