8月7日 古地図散歩に行こう!半蔵門〜新宿
8月です。暑いです。
江戸時代の地図を見ながら東京の町を歩く「古地図散歩」ですが、歩き旅応援舎で参加者を募集する形態のものは夏の間はお休みです。ただし個別のオーダーを受けての古地図散歩は行っています。
8月7日は、奈良から旅行に来ているご夫婦からの依頼で「半蔵門〜新宿」のコースを歩いてきました。
お二人とも歩き慣れた人たちらしく、30℃を超える気温でしたが、飲み水、帽子、露出の少ない服装と暑さ・日差し対策は万全でした。
半蔵門駅を出ると、目の前にはどら焼き発祥の地、近くには「首斬り浅右衛門」屋敷跡、そして平河天満宮へとやってきました。
江戸時代後期の天保15年(1843)の青銅製の鳥居のある神社です。鳥居の足下には小さな狛犬、あるいは獅子たち。
太田道灌が現在の竹橋駅近くにある平川門のそばに建立した神社ですが、徳川家康の行った江戸城大改修に伴ってこの地に移転してきました。
その先の坂道をくだった先の谷間が清水谷。昔、よい水が湧く井戸があったそうです。ここから明治11年(1878)に大久保利通暗殺事件のあった紀尾井坂を上ると、そこには江戸城外堀で一番古い門だった喰違見附の跡です。今も枡形になった土塁が残っています。
喰違見附跡を過ぎると迎賓館です。江戸時代には紀伊徳川家の上屋敷だった場所です。もともと紀伊徳川家の上屋敷は清水谷にあったのですが、そこが火事で焼けて以降はこの場所が上屋敷として藩主の住居として使われるようになりました。
ここからは坂道の上り下りが増えてきます。「4つの谷があったから四谷」という説もあるくらいで、とにかく坂が多いです。この坂道の上にも下にも途中にもお寺がたくさんあります。寛永13年(1636)に江戸城の大改修工事があり、外堀が築かれ江戸城の領域が大幅に拡大しました。そして外堀内にあった寺はほとんどが外堀外に集団で移転しました。この四谷にある多くの寺も、そのときに移転してきたものです。
お寺もたくさんありますが、ところどころに神社もあります。その一つが於岩稲荷田宮神社。あの「東海道四谷怪談」で有名なお岩さんを祀る神社です。
ところが、この地に伝わるお岩さんは怨霊などではありません。田宮家で入り婿の夫を支えて田宮家を栄えさせた良妻がお岩さんだったのです。そのお岩さんが日参していた稲荷神社が、のちに於岩稲荷田宮神社となりました。
四谷四丁目の交差点には、江戸時代に四谷大木戸がありました。江戸の外れを意味する大木戸は、当初は夜になると治安維持のために閉じられていましたが、江戸の治安は非常によかったためにほどなく木戸は廃止となり、残っていた石垣も明治時代に撤去されました。
今はこのような碑が残っているだけです。ちなみにこの碑は、ここから始まっていた玉川上水の水道管の石樋の石材から作られています。
この先からかつての内藤新宿に入ります。江戸幕府が制定した五街道の一つ甲州道中は、当初は最初の宿場が高井戸でした。これは日本橋から遠すぎるというわけで、この地にあった高藤藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)の北側を削って新たに宿場を作ったのが「内藤新宿」なのです。この内藤新宿が現在の新宿の発展の基となりました。
古地図散歩はこの内藤新宿で終わりとなります。暑い一日でしたが、無事に歩き終えることができ、遠方からのお客様にも楽しんでいただけたようで良かったです。
今回のコースとみどころ
半蔵門駅駅→どら焼き発祥の地→首斬り浅右衛門邸跡→平河天満宮→金鱗堂尾張屋跡→清水谷公園→紀尾井坂→迎賓館前→豆腐地蔵→須賀神社→於岩稲荷田村神社→長善寺→四谷大木戸・水番所跡→太宗寺
江戸時代の地図を見ながら東京の町を散策する歩き旅応援舎のウォーキングイベント「古地図散歩に行こう!」は、夏の間はお休みします。次回開催は9月20日の予定です。コースは9月初旬ころににて公開する予定です。
江戸時代の地図を見ながら東京の町を歩く「古地図散歩」ですが、歩き旅応援舎で参加者を募集する形態のものは夏の間はお休みです。ただし個別のオーダーを受けての古地図散歩は行っています。
8月7日は、奈良から旅行に来ているご夫婦からの依頼で「半蔵門〜新宿」のコースを歩いてきました。
お二人とも歩き慣れた人たちらしく、30℃を超える気温でしたが、飲み水、帽子、露出の少ない服装と暑さ・日差し対策は万全でした。
半蔵門駅を出ると、目の前にはどら焼き発祥の地、近くには「首斬り浅右衛門」屋敷跡、そして平河天満宮へとやってきました。
江戸時代後期の天保15年(1843)の青銅製の鳥居のある神社です。鳥居の足下には小さな狛犬、あるいは獅子たち。
太田道灌が現在の竹橋駅近くにある平川門のそばに建立した神社ですが、徳川家康の行った江戸城大改修に伴ってこの地に移転してきました。
その先の坂道をくだった先の谷間が清水谷。昔、よい水が湧く井戸があったそうです。ここから明治11年(1878)に大久保利通暗殺事件のあった紀尾井坂を上ると、そこには江戸城外堀で一番古い門だった喰違見附の跡です。今も枡形になった土塁が残っています。
喰違見附跡を過ぎると迎賓館です。江戸時代には紀伊徳川家の上屋敷だった場所です。もともと紀伊徳川家の上屋敷は清水谷にあったのですが、そこが火事で焼けて以降はこの場所が上屋敷として藩主の住居として使われるようになりました。
ここからは坂道の上り下りが増えてきます。「4つの谷があったから四谷」という説もあるくらいで、とにかく坂が多いです。この坂道の上にも下にも途中にもお寺がたくさんあります。寛永13年(1636)に江戸城の大改修工事があり、外堀が築かれ江戸城の領域が大幅に拡大しました。そして外堀内にあった寺はほとんどが外堀外に集団で移転しました。この四谷にある多くの寺も、そのときに移転してきたものです。
お寺もたくさんありますが、ところどころに神社もあります。その一つが於岩稲荷田宮神社。あの「東海道四谷怪談」で有名なお岩さんを祀る神社です。
ところが、この地に伝わるお岩さんは怨霊などではありません。田宮家で入り婿の夫を支えて田宮家を栄えさせた良妻がお岩さんだったのです。そのお岩さんが日参していた稲荷神社が、のちに於岩稲荷田宮神社となりました。
四谷四丁目の交差点には、江戸時代に四谷大木戸がありました。江戸の外れを意味する大木戸は、当初は夜になると治安維持のために閉じられていましたが、江戸の治安は非常によかったためにほどなく木戸は廃止となり、残っていた石垣も明治時代に撤去されました。
今はこのような碑が残っているだけです。ちなみにこの碑は、ここから始まっていた玉川上水の水道管の石樋の石材から作られています。
この先からかつての内藤新宿に入ります。江戸幕府が制定した五街道の一つ甲州道中は、当初は最初の宿場が高井戸でした。これは日本橋から遠すぎるというわけで、この地にあった高藤藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)の北側を削って新たに宿場を作ったのが「内藤新宿」なのです。この内藤新宿が現在の新宿の発展の基となりました。
古地図散歩はこの内藤新宿で終わりとなります。暑い一日でしたが、無事に歩き終えることができ、遠方からのお客様にも楽しんでいただけたようで良かったです。
今回のコースとみどころ
半蔵門駅駅→どら焼き発祥の地→首斬り浅右衛門邸跡→平河天満宮→金鱗堂尾張屋跡→清水谷公園→紀尾井坂→迎賓館前→豆腐地蔵→須賀神社→於岩稲荷田村神社→長善寺→四谷大木戸・水番所跡→太宗寺
江戸時代の地図を見ながら東京の町を散策する歩き旅応援舎のウォーキングイベント「古地図散歩に行こう!」は、夏の間はお休みします。次回開催は9月20日の予定です。コースは9月初旬ころににて公開する予定です。
- 2014.08.07 Thursday
- 古地図散歩
- 13:00
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- by arukitabi